愛するということ
愛は技術だろうか。
技術だとしたら、知力と努力が必要だ。
それとも、愛は一つの快感であり、それを体験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものなのだろうか。
この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。
(中略)
誰もが愛に飢えている。
楽しい、あるいは悲しいラブ・ストーリーを描いた数えきれないほどの映画を観、愛をうたった流行歌に聞き入っている。ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。
(中略)
愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になるか、ということなのだ。
【エーリッヒ・フロム/愛するということ】
愛って、
落ちたり、
現れたりすることではなく、
自らが踏み込んでいく先に、
巡り逢うものだと思う。
愛を学ぼうという姿勢がなかったら、
現れたとしても、
掴めないまま。
受け取る技術も、
育てていく技術も、
必要だと思っている。
どう愛するか、
どう愛を受け取るか、
自分から何を与えるか、
自らが相手に踏み込むことだ。
愛することは、自ら学ぼうとしなければ、掴めないことがたくさんある。
愛することは簡単だが、
どうしたら愛されるか、
愛するにふさわしい相手を見つけるのか、
愛されるにふさわしい相手を見つけるのか、
それが難しいと言う。
そんな、対象の問題であって、能力の問題ではない、ということに視点がいく場合が多いかもしれないけれども、どうしらた人を愛せるようになるか、他の技術と同じで学ばなければならない。
数々の愛の問題や人間関係の問題に直面することになってしまうのは、単なる相手の問題や成り行きの問題ではなく、自分が愛する技術を身に付けることが必要だということなのだと思う。
理想的な状態にする為に、
相手に期待することでも、
完璧に期待通りの要素を持った人を探す技術でもなく、
相手をコントロールすることでもなく、
受動的に愛される方法を多様することでもない。
自分が何を相手に与えたいか?
相手から何を与えられたいか?
わからないまま彷徨う人もいる。
どう生きていくか、
どんな技術をどのように習得するのか、
それと同じように、
愛も捉えていくと、
見えなかったものが、
見えてくるんだと思う。
傷が多くの愛を目覚めさせてくれる時もある。
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