良い命であっても、生き方で左右する。
人生、山あり谷あり…
とは言うけれど、、
山と谷がなだらかな人と、嶮しい人がいます。
中国古来の考え方からすれば、無難で平々凡々な命(なだらかな山と谷)を持った人の方が幸せと言うそうです。
面白味には欠けるけど。。
個性的な命というのは、偏ったものが自分の首を絞める(嶮しい山と谷)ということもあり、苦労も多く、波乱な人生と言われます。
苦労が糧になれば、面白い人生を生きられるということ。
私には、どちらもメリットデメリットがあると思っています。
安心な命を持っていても、甘んじていると、自己主張のなさから周りに流され過ぎてしまい、自分らしく生きることや、やりたいことがわからず、自分自身を作ることができません。フラフラとしてしまい、苦労はしないけど、甘ちゃんで堕落に陥ってしまうという罠があります。助けてくれる人がいないような苦労の時期に、その谷が大きくなって、精神を壊してしまったり、悪いことへ手が伸びるということも。
個性的な命だからといって、自分らしさの盾を持ってワガママに生きてしまうことへ陥ってもトラブルが待っています。自分さえ良ければいいという行動をしていることに気が付かず、無意識の価値基準が自分の欲望だけになっていたりして、一見自分の欲しいものを手に入れて上手くいっているようでも、返って周りからの信用度が低くなり、物事をごり押しして上手くいかなくなっていくという罠があります。
だから、生き方って大切なんです。
回避するスローガンとして
「悪い時期に成功の種を蒔き、良い時期に失敗の種を蒔かない」
これって、すごく山と谷を活かす生き方です。
なだらかだろうが、嶮しかろうが、魔法の言葉。
そして、現代では個性的な人や、自由性の高い性格の人が一見、良さそうな感じに思えますね。
個性を発揮できる環境とか、出る杭が打たれない環境で、なお且つ、自分が暴走しなければ人生は充実!だと思います。
今の時代、個々人の個性とか、自力でなんとかする、ということが要求されている感じが強くなっているので、昔のような偏った命が必ずしも、ダメというわけでもなさそうな気がします。
現代では、返って平凡だと、変わることが億劫だけど、個性的な人に憧れを感じて、自分に無価値観の葛藤が生まれてくる弊害があるかもしれません。
状況によって、一概には言えません。
でも、とにかく自分を健全に知って愛することが重要。
自分のことがわかっていれば、偏りを才能として活かすことができるので、自分の落ち着きどころが見えてきます。
現実、どのような落ち着きどころかは、現代の情報過多で多様性のある社会の中では、絶対〇〇って決まってないから、たくさんある選択支の中から、選んで当てはめるか、なければ自分でその環境を創るって感じになると思います。
どんな職業ですか!?
どんな人物ですか!?
っていう正解は、自分のしっくり感覚が答えになってくるとは思います。
答えは自分の中にあり、ヒントは命に現れます。
時代によって、〇〇職、〇〇人は、変化します。
運気のタイミングによっても趣向が変わります。
とにかく、人との競争、変な自分のプライドと戦わなくて済みます。
ただし、やっぱり自分ってそうなんだ、だからガタガタしていて悩みも多かったんだ~となった時に、自分のその面、そうは言っても変えられなーいと拘りを捨てきれずにいれば、人に優しくなれないし、同じループで生きるしかなくなってしまいます。
まとわりついているものは、自分でしか外せない。
外したいと思わなければ、周りのせいにすることしかできないけど、周りを選んでるのは自分だから、外せば選ぶ人も変わるし、或いは自分の接し方が変われば、そのままで上手くいく人も出てくる。
自分を変えるって言うのは難しいし、変えなくてもいい。
でも、深呼吸して、、
今までのパターン(ある偏った思考してしまう、行動してしまう、また、感じることで変な方へ飲み込まれてしまう癖)握りしめている“パターン”は本当に自分を豊かにしていますか?ということ。
それを認めても、そんなに怖くない。
逃げ続けてる方が、妄想の怖さが倍増する。
認めてみたらスッキリして、そんなに苦しくなかった、楽になった、毒が抜けた、から、
なんか自然と変われそうな方向に流れた、波に乗った、気が付いたら変わった。
みたいな。(笑)
自分の偏りを補完する、もしくは毒に対応できる相手と出会うっていう形で、問題回避できることもあるけれど、それを引き寄せるには、自分が偏っているなら偏ったなりに良い人探してみようっていう思考転換のスイッチを押さないと始まらない。
今のままでいいの、でもなんか辛い、周りや相手や出来事に囚われていることに気が付き始めたっていうことがあれば、それが自分らしくスムーズに明るく生きられるスイッチを見つけられたっていうサインって感じです!
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